バケモノの子 一郎彦 その後 (3)
7月9日放送、日本テレビ系・金曜ロードショー「バケモノの子」
21:00 〜 23:19



細田守監督No.1ヒット作 「バケモノの子」が今夜放送。

細田監督の3作品目の「おおかみこどもの雨と雪」の爽快感とは違い、今作「バケモノの子」ではどこが腑に落ちない点が多い。管理人個人的にはこの映画を2回見てやっと納得できた映画だった。そして、映画ポスターにも書いてある「君となら強くなれる」というのを意識してみるとより面白く見れる。



5chでの評価やレビューでよく見られたのは「無駄なシーンが多いとのこと」

確かに最初はそう思えるところはあったが、2回目以降みると無駄なシーンは一切ないように思えてくるほどちゃんと描写されている。九太や熊鉄が修行に出るシーンにも答えがあり、とてもわかりやすい。




強さとは、人から教わるのではなく、自分で答えを出すこと。

終盤に近づいていくと、九太には「何かを判断をする強さ」が足りなかった。自分はどちらを親として信じたらいいのか、様々な問題が九太や人間の子の胸の中に生まれ、そして解決ができないまま闇を生み、やがて肥大化していくのが今作の設定であり、これも現実で九太と同じ頃の子供たちはこうなっていることを表現している。



今回は、映画で人によってはわかりにくい部分や、原作小説版『バケモノの子』の一郎彦のその後についてまとめてみた。





■目次

バケモノの子とは
バケモノの子一郎彦その後
バケモノの子の楓が邪魔でいらない存在?

バケモノの子とは




『バケモノの子』は、2015年に公開されたスタジオ地図制作の日本のアニメーション映画。細田守監督による長編オリジナル作品第4作。本作では、バケモノたちの世界にある都市・渋天街を舞台に親子の絆を描いた「新冒険活劇」となっている。




あらすじ


東京・渋谷には人間の知らないところにバケモノが暮らす街・“渋天街”が存在する。

ある日、女手一人で育ててくれた母(麻生久美子)を亡くし家を飛び出した孤独な少年・蓮(宮崎あおい)は、渋谷を散歩していた熊徹(役所広司)というバケモノと出会った。



彼を追って渋天街に入り込んでしまった蓮は、熊徹から九太と名付けられ、彼と共に暮らすことに。折しも、渋天街では長年バケモノを束ねてきた宗師(津川雅彦)が引退して神に転生すると発表し、誰が次の宗師になるのか話題沸騰中。


宗師候補の一人に挙げられていた熊徹は、宗師になるための条件である“弟子”を探していたのだ。人格・強さともに次期宗師間違いなしと言われる猪王山(山路和弘)と互角に渡り合うために九太を受け入れた熊徹だったが、人にものを教えたことも、教わったこともない彼は九太と衝突してばかり。



親友の百秋坊(リリー・フランキー)や多々良(大泉洋)が心配する中、「強くなりたい」一心で熊徹の真似をし続ける九太は徐々にたくましさを身につけていく。一方の熊徹も九太との生活の中で自らの技と心を成長させていき、二人はいつしか本当の父子のような関係に変わっていく。



8年後。
立派な青年に成長した九太(染谷翔太)は久しぶりに訪れた渋谷で、高校生の少女・楓(広瀬すず)と出会う。彼女に漢字を教わったことをきっかけに、渋天街から渋谷に通い大学進学について本気で考え始めた九太は、実の父(長塚圭史)と再会。一方、九太が人間の世界に行っていたことを知った熊徹は激怒、九太と激しい言い争いになってしまい…!?


公式サイト



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バケモノの子一郎彦その後



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映画「バケモノの子」で一郎彦が最後、クジラになったことについて。

人間界に来ていた様子のない一郎彦が、なぜ落とした本を見て、鯨と読むことができ、鯨に姿を変えたのか?作中で説明がされていないので、5chでも様々な考察がされている。



これは、原作小説版『バケモノの子』の冒頭を読めば分かるが、冒頭に「人間界の技術はほとんどがバケモノ界から来たものであり、人間界では広まったがバケモノ界ではそれ程重要視されなかった文化のひとつが『文字』とある。




位の高い宗師様や宗師の候補クラスである猪王山になると、文武両道でやるので文字は読み書き出来て当然であり、その息子である一郎彦は当然習っていると読み取れる。



九太が文字の読み書きが出来なかったのは、熊徹が粗暴な性格でまともに相手をしてくれる師匠と呼べる存在が居なかった為と本人が必要と感じなかった為、習得しなかったから。



ちなみに九太が図書館で『白鯨』を手にとったのは、偶然ではない。
引越しの際に箱に放り込まれる本の中に『白くじら』と言う本が一番上に見える。おそらく、母親に読み聞かせてもらっていて記憶に残っていたから手に取った。



一郎彦が最後、クジラになったことで人間界の後日の報道では、爆発事故で片付けられ、大きな鯨の幻影を見たと言う目撃情報はあっても、現実的に考えて有り得ない現象の為『あった』と言うだけで華麗にスルーされている。



原作でも主人公の1人である熊徹は、付喪神(刀の)となって蓮の心の刀になる。一郎彦との闘いで殉じる覚悟だった蓮の心の穴を塞ぎ、そのまま蓮の心の中で成長を見守る、といったその後となっている。





ちなみに、5chで放送があるたびになる久太についている白いやつは、「チコ」という白いネズミで、ホームレス状態だった九太と渋谷の路地裏で出会い、そのまま九太をずっと見守っている。久太も白いやつを嫌がっているわけでもなく、チコの存在は九太にとって影が絵のない友人の一人でもある。

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バケモノの子の楓が邪魔でいらない存在?


バケモノの子 一郎彦 その後 (1)

バケモノの子のテーマである「君となら強くなれる」という言葉の背景を考えると、楓が作品上いらない存在で邪魔をして映画全体をつまらなくしてしまっているという意見は多い。





人は心に闇を持っている。
その闇とは人の弱い心、主題歌に出てくる虚栄心・恐怖心・自尊心とか。 人は自分の心の闇と戦いながら生きていて、そして一人で生きているわけじゃなくて、みんな支え合って生きている。



その支え合って生きる掛け替えのない存在が君で、「君となら強くなれる」から自分の心の闇に負けないで生きて行ける。 蓮にとってその最大の「君」が熊徹、でも一人だけじゃなくて、楓や多々良や百秋坊も「君」。




その支えというのは心の支えでその具現化が「心の剣」。 その熊徹に支えられている蓮はバケモノに育てられた、支えられた存在だから「バケモノの子」。



人は見た目が弱そうなのと同様に心も弱い、だから心に闇を宿す。そして真に怖いバケモノは実は人の心の闇で、その具現化したものが鯨で、それが「白鯨」からきている。監督は、「人は常に自分の心の闇の鯨と戦いながら生きている」ということを伝えたかったと取材でも答えている。




しかし、「バケモノの子」でヒロインの楓は、細田監督のインタビューを見ると、初の予定にはなかった設定にされてしまったようだ。



一部抜粋すると、監督は「当初の予定にはなかった設定は?」の問いに「九太が出会う勉学の師匠・女子高校生の楓は、久太とは対照的なひ弱な少年の設定だった」明かしている。細田監督は「プロデューサーから『よく考えたら女性が出てこない』と指摘されまして(無理やり登場させた)。ただし楓という名前は変わっていないんです」と話した。




これは、ある意味プロデューサーが作品に圧をかけたということ。

だから、映画後半とか楓の設定が滅茶苦茶で水と油状態。
5chでは「広瀬すずを、無理矢理入れたから」と、みんな知ってるのだが、特に楓のキャラクターにまったく面白みがないことや、楓がいいかげんな恋愛対象としてしか描かれないで作品をつまらなくさせている。




よくできた作品というのは、実際に映画で描かれる前の段階の人生の積み重ねの設定まで作ったうえで、ストーリーに各キャラクターをはめ込んでいるもの。


映画を見ている人もそれをわかっており、映画に描かれていないバックグラウンドはどうなっているかを自力で調査したりする。それも映画の楽しみ方のひとつ。


江川達也が大炎上をおこした「君の名は。」へのコメントを借りれば、「これ売れるなとは思いましたけど、丁寧に売れる要素をぶち込んでいて、言ってみれば大人のドラえもんみたいなもん」「プロから見ると全然面白くないんですよ。作り手から見ると、作家性が薄くて、売れる要素ばかりぶち込んでいる、ちょっと軽いライトな作品」と、後半で必死に君の名をネガティブに評しようとしている。


しかし、前半には彼から見たても「売れる要素が多数盛り込まれている」と言う事実を言わざるを得なくなっている。やはり、ちゃんと観客に訴求できる「巧い」作られている事は確かなこと。



大炎上を起こした理由は、そもそも売れる要素を売れる要素を足りえるものとしたのは、他でもない「プロ」の先達であるということ。売れる要素を入れるだけで売れるものではなく、売れるように取り扱うことは難しいのに、あたかも簡単な事のように言ってしまったから。


現代人でバケモノの子に足を運ぶような客層には、白鯨を読んだことがある人はほとんどいない。しかし、バケモノの子の魅力の相応の部分が白鯨との関連に割かれている。そこに魅力を盛り込んでいても、白鯨を知らなくて魅力が伝わらない人には、ヒロインが邪魔としか伝わらなかったのかもしれない。





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